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真田幸村 六文銭 ルビーカフス (戦国武将 メンズジュエリー)

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TEL 055-976-2840
FAX 055-976-2841
SV真田六文銭ルビーカフス

人気戦国武将No,1!義理を重んじ戦国の世を一途に駆け抜けた真田幸村。
「真田の赤備え」に因み、六文銭に真っ赤な輝きを放つルビーを合計4石あし
らいました。
『Rekixy-(レキシー)』のコンセプト、歴史と現代を融合させた新感覚のデザイン
により、ビジネスライフにおいて、貴方の魅力や気持ちを高めてくれる格好良い
カフスです。

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真田六文銭ルビーカフス 真田六文銭ルビーカフス

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Fitting Image
真田六文銭ルビーカフスfitting image
腕を動かす度にスーツの下からキラッと強い輝き放つルビーは、
貴方の気持ちをキリッと引き締め、活力を与えてくれます。



真田六文銭ルビーカフス
◆シルバー925(ロジウムメッキ)
戦国武将 メンズジュエリー
真田幸村 六文銭 ルビーカフス


商品番号  sanadacuffs
特別価格 ¥38,000

注文数



材質
シルバー925(ロジウムメッキ)
ルビー2.5mm
総重量
5.02g
サイズ
縦12mm 横8mm 厚さ4.1mm
納期
2週間以内 送料無料

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真田幸村の生涯(1567〜1615)

永禄10年(1567年)真田昌幸の次男と甲斐国古府中(現山梨県甲府市)にて生まれたと
言われている。幸村の正式な名は、真田左衛門佐(さえもんのすけ)信繁。幸村という名
は俗称である。

天正3年(1575年)、真田氏の主家で甲斐国・信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで
織田・徳川連合軍に敗北し、天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻で武田
氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。

天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれ、織田という後盾が
無くなった真田家は、所領を守るために周辺の北条・徳川・上杉の傘下を渡り歩いた。
天正10年(1585年)、徳川と不和になった事により起きた第一次上田合戦の際、19歳の
時幸村は援軍を請うため上杉氏の下に送られた。このときは人質でありながら領地を与
えられたとされる。
父昌幸が豊臣氏に取り入った際には引き続き人質として大坂に送られた。昌幸は最終的
に豊臣秀吉の傘下に入ったため信繁はそのまま秀吉の下に留まり、のちに秀吉の家臣・
大谷吉継の娘を正妻に迎えている。文禄3年(1594年)、従五位下左衛門佐に叙任される。

秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が同じく五大老の一人だった会津の
上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の
戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた
兄・信之と袂を分かつことになる。

東軍は東海道と中山道を分かれて進軍し、昌幸と幸村は居城上田城に籠り、中山道を進
んできた東軍の徳川秀忠軍を上田城にて迎え撃った(第二次上田合戦)。少数の真田勢
にてこずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として主戦場となった関ヶ原で
の決戦に間に合わず、父家康は激怒したと言われている。
しかし三成率いる西軍は、9月15日に徳川方に敗北を喫する。昌幸と幸村は、本来なら敗
軍の将として切腹を命じられるところだったが、兄信之の取り成しで紀伊国(現和歌山県)
九度山に配流を命じられるのみにとどまった。
九度山の生活はすさまじく貧しいものだったようで、共に生活を送っていた父・妻子・家臣
を養うために、編んだ紐を全国各地に行商した、といわれており、その紐は現在『真田紐』
と呼ばれ、京都辺りの伝統産業として伝えられている。

幸村は、それらで得たお金で、いつか再起を図り、真田家を復興させようと思っていた矢先、
慶長16年(1611年)父・昌幸は死去した。 幸村が九度山に蟄居していた間に、徳川氏と豊
臣氏の関係が悪化、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山
の幸村の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈った。幸村は、国元にいる父・昌幸
の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助とともに大坂城に入城した。
大坂で幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという。かの有名な『真田の赤備え』で
ある。

慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣で幸村は、当初籠城に反対し、積極的に迎え撃
つよう主張したが、籠城の策と決すると、幸村は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造
口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発
し先方隊に大打撃をあたえ、その武名を知らしめる事となる。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されて
しまった。そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)、使者として幸村の叔父
である真田信尹(のぶただ)を派遣し「十万石下さるべく候旨」条件を提示し寝返るよう説得
している 。しかし幸村はこれを断った。すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度
は「信濃一国を与える」と説得に出た。これを聞いた幸村は「一万石では不忠者にならぬが、
一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという。

その後、慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、幸村は討ち死を覚悟しており、士気を高
める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。豊臣
氏の敗色が濃厚となる中、幸村は「今はこれで終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは家康の
首ひとつ!」とつぶやき 、正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。
そしてわずかな兵で、徳川勢の隙を突き家康の本陣まで攻め込んだ。真田勢の凄まじさに
家康は自害を覚悟したほどだったという。しかし、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰めら
れ、討ち死にした。享年49。
そのすさまじい戦闘ぶりは、『真田は日の本一の兵(つわもの)』と、敵方の徳川方に絶賛さ
れたものだった。

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